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沿革

保育室の歴史 1980年代(後期)

この頃の父母の話
  • 冬、雪の日、子どもを抱っこして池に落ちてしまったっけ。
    皮膚が弱かったので、自宅のおむつを使わせてもらったっけ。
    母乳の冷凍もしてもらったな〜。
    マットの上でコロコロと良く遊んでいたな〜。

  • 池の飛び石から落ちそうになった。
    暗いベットの部屋で意外とスヤスヤよく寝ていた。

  • はとぽっぽのおかげで子育てでも仕事の面でも助けられた。
    その娘も高校生。本人は保母をやろうかと考えているようだが 生半可では保母はできないと諭しています。

保育室の歴史 1980年代(前期)

1980(昭和55)年度
  • 「はとぽっぽを育てる会」総会。
  • 保母の学習会「乳児の保育、幼児の保育」が始まる。
  • 父母と保母の懇談会。運営委員会体制が整う。
  • 市議会を傍聴したり、請願が主旨採択されるなど父母らの活動はますます活発になる。
1981(昭和56)年度
  • 前年度の在室者は全員保育園に入園。
  • 保育室の運営について、これまでの父母職員全員参加を改め、それぞれの代表者で構成される 理事会を発足させる。
  • より多くの人にはとぽっぽを知ってもらおうとパンフレットを作成し、各方面へ配った。
1982(昭和57)年度
  • 保母2名を常勤として雇用。
  • はとぽっぽ祭り開催。
  • 請願書についての243名の署名を集める。
  • 請願書提出(保母の給与保証、在室児の健康診断など)。
  • 定員に達した後も、入所申し込みが相次ぐ。
    なんとか受け入れたかったが、断らざるをえなかった。
1983(昭和58)年度
  • 保母3名を常勤として雇用。
  • 請願書提出。署名1,177名。趣旨採択となる。
  • 市長交渉(保育園父母会連絡協議会主催)。
  • 「育児ノイローゼで夜も眠れない、一時的に保育してほしい」などの相談が出始めた。

当時のはとぽっぽ共同保育室

当時のはとぽっぽ共同保育室

この頃の父母の話
  • 冬、雪の日、子どもを抱っこして池に落ちてしまったっけ。
    皮膚が弱かったので、自宅のおむつを使わせてもらったっけ。
    母乳の冷凍もしてもらったな〜。
    マットの上でコロコロと良く遊んでいたな〜。

  • 池の飛び石から落ちそうになった。
    暗いベットの部屋で意外とスヤスヤよく寝ていた。

  • はとぽっぽのおかげで子育てでも仕事の面でも助けられた。
    その娘も高校生。本人は保母をやろうかと考えているようだが 生半可では保母はできないと諭しています。

保育室の歴史 1970年代

1976(昭和51)年度
  • 多摩市永山3丁目地域の出産予定の人、産休明け保育に対し関心を持つ人々により、 良い保育を目標とした共同保育室を作ろうと活動を始める。
    稲城市の無認可保育園の見学、場所の交渉、物資集め等を行なう。
    ゼロからの出発のため、出資金をつのり、準備金とした。
  • 保育ママ(家庭福祉員)の集合体の形をとることとし、多摩市に申請を出す。
  • 9月、はとぽっぽ共同保育室が誕生。
    開室時の子どもは3名。定員は12名。
  • バザーの売り上げ等で、設備・備品を少しずつ揃えながら、福祉事務所等へ交渉に行く。
  • 「多摩市の保育をよくする会」準備会を結成。
1977(昭和52)年度
  • 前年度の在室者(12名)は全員保育園に入園。在室児2名でのスタート。
  • 有資格の保母を迎え入れる。
  • 4月にさかのぼり、無認可保育園として認められる。
  • 4月にさかのぼり、一時金が都並みに支給される。
    児童1人あたり:運営費18,000円、児童処遇費4,500円
    施設援助費:18,000円
    福祉事務所、市長、各党などに積極的に働きかけ、こうした成果を得る。
  • バザーなど3回実施。
1978(昭和53)年度
  • 前年度の在室者(12名)は全員保育園に入園。在室児1名でのスタート。
  • 請願書の学習会。各政党へ要望書を提出。請願書(措置費の増額など)を提出。
  • 請願が否決される(委員会は採択、本会議では否決)。
  • 請願を否決した自民党、公明党に対し質問状を出す。
  • 自民党、公明党より回答を得る。「別途、保育室に対し増額を要請中」とのこと。
  • 廃品回収、バザーなど7回実施。
1979(昭和54)年度
  • 前年度の在室者(12名)は全員保育園に入園。在室児1名でのスタート。
  • 厚生産業委員の議員に呼びかけて状況説明会を開く等の活動をする。
  • 光熱費(4,000円)が9月からつく。

この頃の父母の話
  • 保育室を広げるため、ビールのケースを敷き詰め、その上にベニヤ板やホットカーペットを敷いて 一部屋作ったことがある。

  • 夜中まで運営実行委員会をした。調理道具から保育用品まで、みんなで持ちよって 最小限の品物で出発させた。

  • バザーで手作り品を夜中まで作った。市役所へ朝駆けで補助金のことやら、 認可園に入れるよう働きかけた。

保育室の歴史 1990年代(後期)

1995(平成7)年度
  • 準職員が常勤になる。これで、常勤保母が5人となった。
  • 子ども1人あたりの補助金は、東京都が35,500円、多摩市が10、770円。
1997(平成9)年度
  • 多摩市の補助金アップ20円!。 多摩市や市議会に対する働きかけを一段と活発に行った。
  • 子ども1人あたりの補助金は、東京都と多摩市をあわせて75,700円。
1998(平成10)年度
  • 認可園をめざすという方針を理事会で承認。
  • ベルブ永山で20周年記念イベントを開催。 (人形劇、映像とパネルで見る「はとぽっぽ」、「子育ての今」 ビデオ「今・子どもたちが輝く時 乳児編」上映会)。
  • パルテノン多摩でチャリティー絵画展の実施。
  • 多摩市に対し、正式に認可の要請を行なう。
  • 多摩市の補助金が都並みにアップ。 子ども1人あたりの補助金は、東京都と多摩市をあわせて76,600円。
  • 待機児童問題解消の一環として、多摩市より定員増の要請があった(24名→27名、10月より)。
  • 常勤保母5人に加え、準職員が1人増えた。
1999(平成11)年度
  • 多摩市が、保育料1人あたり11,700円を補助。 保護者が支払う保育料が月47,000円から35,300円になった。

浜田さんのテラスをちょっと拝借

浜田さんのテラスをちょっと拝借

この頃の父母の話
  • 普通の民家を借家としていたので「えっ!」と思った。
    手作りもあったけどゴチャゴチャした感じ。
    でも、暖かい雰囲気のところだった。

  • 木のおもちゃ等、手作りが多くて、ぬくもりのある素材で遊んでいる事が 印象強かった。
    いつも先生と話し合える状況が良かった。

  • 子どもたちも親も保母さんたちも本音が出しあえた。
    園庭がないため、公園の渡り歩きの外遊びだったけれど、 スリルがあって子どもたちもたくましく育ってくれた。

保育室の歴史 1990年代(前半)



















1990(平成2)年度


  • 多摩市議会で公費補助の増額を求めた請願が採択。

  • 山口乙丸先生(町田市、山口小児クリニック院長)による学習会「乳幼児の健康づくり」を実施。
    一般市民も参加。市民企画講座のため、講師料は多摩市が支出。

  • 多摩市の認可保育園でも半数以上が産休明け保育を行なうようになった。

    はとぽっぽの将来(無認可のままか、社会福祉法人になって認可園をめざすか)について
    少しずつ考えるようになっていった。


1991(平成3)年度

  • 長期構想プロジェクトチーム発足。

  • 山口乙丸先生が「払えるだけでいいヨ」と念願の嘱託医になってくれた。感謝!


1992(平成4)年度

  • 常勤保母が4人になる。

1994(平成6)年度

  • 大規模増改築完成。

  • 多摩市に施設維持費の補助を求める陳情書を提出。
  • 10年間勤務して下さった菊地先生が退職。お別れ会を兼ねた親子遠足を実施。
  • 陳情書 趣旨採択。
  • 常勤保母4人に加え、準職員が1人増えた。

当時の室内の様子、何を作っているのかな?


何を作っているのかな?





この頃の父母の話


  • 朝、氷のような床に子どもを置いてくるのは辛かった。

    でも、先生達はお日さまのように子ども達を育ててくれました。

    親同士も苦楽を共にして良くがんばっていたと思います。


  • 隙間風が寒かった。鼻がズルズルして風邪をひきはしないかと心配して厚着させたら、
    薄着がいい、ちゃんと見てるから大丈夫、と自信を持って言われて、おかげさまで
    それ以後、病気をしなくなった。


  • 三番目の子がお世話になった。

    親と離れるのが嫌だったが、保育室の入り口(ガレージ)のプールに
    はまり込んで親と別れるのも忘れていた。